サーティンキュー | |||||
Commented by かおりん at 2023-11-07 12:44 x ご無沙汰しております。 >道元の「ただ座る」の言語表現はマイナス方面に走っている!と感じる。それはカルト信者が神を拝めば幸福が来ると思って思考を捨て、真実を探求しない姿勢と同じだから。 駒澤大学で講義を受けていた時、当時助教授だった池田錬太郎先生も「道元禅師の、ただ黙々と坐ればいい、という姿勢には、個人的には疑問を感じます。という事を講義中に仰有っており、それは曹洞宗は黙照禅、臨済宗は坐禅をしながら公案を考える看話禅だが、そちらの看話禅こそが禅の目的に適っているのでは?という意味に近かったと思っています。 今回サーティンキューさんの「それはカルト信者が神を拝めば幸福が来ると思って思考を捨て、真実を探求しない姿勢と同じだから。」という見解は全く腑に落ちるものです。 私は近年最高の禅僧は宮崎奕保禅師だと思っていますが、宮崎禅師にも性エネルギー昇華の発想がもしあったなら、曹洞宗は更に違ったものになっていたかもしれないと思うこともあります。 ただ、真にそれを実践したければ、真剣に禅に取り組んでいらっしゃる僧侶の方々には申し訳ないのですが、教団という組織では出来ないのかもしれません。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー ![]() ★久しぶり、かおりんさん。外人は言葉を唱える仏教の「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も全く興味がありませんね。日本仏教に興味がある外人は【禅】のみに興味がある!というのが鷲の認識です。しかし日本仏教の【禅】の世界では道元がエライ人であり、彼の「ただ座る」という言葉が、言葉で【禅】を理論的に語ることを否定しているマイナスの強力な作用に働いている!と思ってます。統一教会的に言えば【文鮮明を神だと思って拝め!そしてカネを持ってこい!】と云う言葉に通じるのが、道元の「ただ座る」です。「ただ文鮮明を神だと思い、カネを持ってこい、何も考えるな」というカンジでwww ![]() ★上は1970年代の後半に世界的に大ヒットした、ヨガをやっていたプロテニスコーチのガルウェイの「インナ―ゲーム」と云う本なのですが、彼は人間を「セルフ1」と「セルフ2」に分けます。「セルフ1」は間違った自分であり、「セルフ2」は本当の自分です。本当の自分に成ることは、「セルフ1」が「セルフ2」に従うこと!だと説きます。「セルフ1」と「セルフ2」が合体した時に、最高の【人間の力が引き出せる!」と説きます。そしてテニスをすることは、勝負に勝つためにすることではなく、「セルフ1」と「セルフ2」の合体のためにする!という理論を展開します。ガルウェイの云っていることは【テニス禅】というもので、あらゆるスポーツに応用できます。 ![]() ![]() ★鷲の【禅と瞑想】の解釈は【宇宙の母の援助を得て、性エネルギーを33個の脊椎骨に沿って、二匹の蛇が絡むように上昇させて、脳神経と胸腺に❓(ハテナ)の形に昇華して、紅の卍と合体した獅子である太陽の子を誕生させる行為】ということです。この言葉は、古代の神聖の言葉を下敷きにしてますので間違いないでしょう。それにしてもヨガをやっているプロテニスコーチのガルウェイくらいの【禅】の解釈の【禅の言語表現者】の挑戦者の出現者が必要だと思ってます。道元の【ただ座る】はカルト教祖の言葉と似ているのです。 ![]() ★道元の言葉の間違い???を超えて、日本仏教の【禅】の者たちは、世界の人々が納得する【禅】理論を展開する使命があります。今、【禅】に関しては【沈黙がキン】ではないのです。世界の人々は【禅】の【正統】を求めてます。ガルウェイの【テニス禅】は画期的な発想で、鷲の最近は車での【ドライブ禅】なのです。基本的には、身体の形の▲にした「性エネルギー昇華秘法」を生活の第一としてますが、卓球禅でも車での「ドライブ禅」でも良いと思ってます。さて、今回はこの辺で。また、かおりんさんの返信が楽しみですwww ![]()
by xuzu9851
| 2023-11-07 18:24
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Comments(1)
ご丁寧な解説、ありがとうございました。
あと誤字、×池田錬太郎、○池田練太郎、先生でした。 >ただ文鮮明を神だと思い、カネを持ってこい、何も考えるな ここに関しては、確かにその通りなのですが、カネに関してだけは違っております。 道元禅師は48歳のとき、執権北条時頼に乞われ、鎌倉へ教化に出かけています。 半年間の布教の後、鎌倉を発って永平寺に帰るのですが、その際、時頼公は道元禅師のために、京都の建仁寺と対になるような立派な禅寺を鎌倉に寄進し、道元禅師を開祖として迎えたい、と申し出ました。 が、禅師様は丁重にその申し出を断り、永平寺に戻られました。 しかし時頼公はどうしても道元禅師をあきらめきれず、広大な土地を寄進する代わりに鎌倉にも法を説きに来て欲しい、という内容の『寄進状』を用意し、鎌倉に残っていた道元禅師の弟子である玄明(げんみょう)和尚に持たせました。 玄明和尚は永平寺に到着すると、喜びのあまり、大きな声で「鎌倉執権北条時頼さまからの寄進だぞ」と見せびらかしながら道元禅師の部屋に行き寄進状を呈しました。 道元禅師の顔色は一変して、 「私が鎌倉を去って永平寺に戻った理由がわからぬか。利欲に走っては仏法はない。この清らかな道場を汚したお前を許すわけにはいかぬ」と、玄明和尚を破門にしたと伝えられています。 これについても玄明和尚に同情的な意見も多数あり、道元禅師650回忌の時に、破門追放が赦免されました。 カネに関しては極めて厳格に遠ざけていたことが分かります。 何も考えるな、ただ坐れというのも、不立文字といって、言葉にしてしまうと、その言葉の意味だけに囚われてしまって、狭く浅い解釈になるということで、先ずは何も考えるな、というところから入ったのだと思います。 その不立文字という一方で、経典があるのは矛盾していておかしいと、日蓮が突っ込んでいますがw ただ何も考えるな、というのは一歩間違えれば、考えなくてもただ坐ってさえいれば幸せになれる、という、考える努力を放棄した方向に向かって行きかねないので、そこはカルトと紙一重ということで、注意すべきなんだなと愚考しております。 禅の言語化、理論化は確かに必要です。
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